デュポンライター過去のコレクション
シモン・ティソ・デュポンにて、デュポン社の歴史が始まる。
元々ナポレオン3世の専属カメラマンだった、シモン・ティソ・デュポン(Simon Tissot Dupont)は幌馬車の会社を創業。運悪く火災により、幌馬車会社は潰したが、その後パリのデュー通りで高級書類ケース製造の小さなアトリエを経営する。
デュポン アトリエ
オーダーメイドのディテールとイニシャルが入ったトランクは、間もなくヨーロッパの上流階級の間で必需品となる。ナポレオン3世とウジェニー皇后も、彼の最初の顧客の中に名を連ねていた。
アトリエは繁盛、当時世界最大手の小売業者のひとつである、レ・グラン・マガザン・デュ・ルーヴル(ルーヴル百貨店)の正式納入メーカーとなる。
パリのルーヴル百貨店
フランス皇帝ナポレオン3世の皇后ウジェニーのためにトラベルケースをデザインする。ナポレオン3世夫妻が顧客となったことで、ヨーロッパの上流階級ではエス・テー・デュポンのトラベルケースが大人気になる。ウィンストン・チャーチル、ココ・シャネルなど、多くの著名な人物も顧客となった。
デュポン社100年前の高級トラベルケース
工房の経営は、1919年にシモン・ティソ・デュポンから二人の息子ルシアンとアンドレに引き継がれる。
二人の兄弟は、エス・テー・デュポンの高級トランク・トラベルケースへの高まる需要に応えるため、パリ、デュー通り8番地2にあった邸宅を買い取り工房とした。
注文はとどまるところを知らず、5年後に二人は、パリからアルプスの麓、アヌシー湖に近い、オート=サヴォワ県のファヴェルジュの町に工房を移転する。この地はデュポン家の故郷であり、エス・テー・デュポン製品は現在もこの場所で作り続けられている。
オート=サヴォワ県のファヴェルジュの町
ルイ・カルティエの傘下に入り、ニューヨーク5番街にあるカルティエのブティックでトランクやトラベルケースが売られるようになると、エス・テー・デュポンはたちまち成功を収め、ラグジュアリーなトラベルアクセサリーの基準を確立するに至る。
ニューヨーク5番街のカルティエ・ブティック
ルシアン・ティソ・デュポンは、自社製のトランクやトラベルケースに使われる高級レザーを加工するために、ダイヤモンドパウダーを使用した、ダイヤモンドなめし技法という画期的なプロセスを発明。これにより、レザーに優れた耐久性としなやかさを与えることが出来るようになる。その技術は現在も、エス・テー・デュポンの「ソフト ダイヤモンド」シリーズで使用されている。
デュポンのソフトダイヤモンドグレイン
ルシアン・デュポンは「より美しく。より高価に。より革新的に。」をモットーに、エス・テー・デュポンは、高品質素材と非の打ちどころのない職人技術を誇る由緒ある高級トランクメーカーとしてその名を馳せる。王室や皇族、世界の指導者、映画界の大スター、ファッションリーダーが顧客となり、王のマルティエ(鞄職人)となる。
エス・テー・デュポン社は「Master Plater:メッキ職人」を募集しようとしたところ、印字ミスから「Master Laquerer:漆職人」と掲載される事となる。これに応募してきたロシア人の漆職人から、偶然にも独自の技術を手に入れる事となり、そしてこの年、旅行靴の重量を軽減するため、エナメル素材や重すぎる金属部の代わりに「純正漆」を施す製品を販売し始める。
パティアラのマハラジャが、ハーレムのために漆仕上げのミノディエールと呼ばれる小型の美しいイブニングバッグ100個と、その中に入れるソリッドゴールド製のライターを注文。エス・テー・デュポンの職人たちは、芸術的な創意工夫を凝らし、世界で初めての高級ライターをデザインした。
マハラジャはブシュロン、カルティエの製品を身に着けていた事でも知られている。
トラベルケース市場が縮小したが、ライターの成功が定着する。金・銀・漆の装飾を施すライターを製造。
ハリウッド俳優ハンフリー・ボガートが、飛行機旅行や、週末に彼が所有するヨット「サンタナ」での船旅に使う軽くて丈夫なトラベルバッグをエス・テー・デュポンに依頼する。また、エリザベス女王2世となるエリザベス王女へのウエディングプレゼントとしてトラベルケースの製作依頼を受ける。
パリ、デュー通りのS.T.Dupont 社隣に店舗を構えていたムッシュー・ドラゴのビルが火災になり、デュポン社は店の一部をドラゴに貸した事で、仏領インドシナでの販売権を持っていたドラゴ社は、お礼としてデュポンライターをインドシナで販売出来るよう申し入れをしてくれた。
これにより、ドラゴとのコラボモデルも販売される。
炎を調整できるガスライター「Line1」を発明し、特許を取得する。
アンドレ・デュポンは、初のレディース・ハンドバッグ「リヴィエラ」を限定シリーズとして発表。このバッグを最初に手にした顧客のひとりが、オードリー・ヘップバーン。
パブロ・ピカソは、自ら所有していたエス・テー・デュポンのライターから3つを選び、漆にデッサンを施して独自のライターに仕上げた。こうして、息子と義理の娘には「アルルカン」と「ピエロ」、友人には「ファウヌス」を描いたライターを贈った。
パイプブームに乗りパイプの製造に着手する。強いオイルキュアリングがかけられており、ナッティーフレーバーが堪能できる製品。数年で撤退する。パイプはごく僅かな期間のみしか製造されなかった。
パイプのみ、イタリアGIGI社のOEM製品とされる。
ウィンザー公爵夫人のためにトラベルケースを特別にデザインする。
エス・テー・デュポンはジャクリーン・ケネディ・オナシスのライターのホイールにヒントを得た最初の高級ボールペンをデザイン。初のジュエリーペン「クラシック」を発表。
原点に戻り、創業時の革製品を作る。
ライター事業ではライン2を発表
女性用としてラインD発表(2012年まで製造)
紳士用時計を発表。シャープペンシルやベルト製品も随時発表。
モンパルナス追加発表、ギャッツビー追加発表。
ギャッツビーのダブルゴドロンのデザインが人気となり、有名に。
女性用としてスブレニライン発表(2004年まで製造)
ボールペン・万年筆のフォルムのすべてにこだわった美しいラインのコレクション「オランビオ」を発表。
女性用プールファムと、紳士用プールオムのペア香水の販売を開始する。
アーバンライン(ハンマータイプ)発表。
デュポン社初のトーチ式ライター、エクステンド発表
クラシックペンの30周年を祝い、エレガントなボールペンを発表。
外枠を下にスライドしてローラー部分を回すと炎が付く、革新的な薄型ライター「Dライト」を発表(2006年まで製造)
強烈なイメージ持った作品で有名なアンディ・ウォーホルによるポップアートのモチーフをあしらった、ライターおよび筆記具のアンディ・ウォーホル限定コレクションを発表。
マリリン・モンローのお気に入りのライターはゴールド製の「LIGNE 2」と言われていた。
世界一有名なスパイ、ジェームズ・ボンドと初のコラボレーション。
プッシュバーを押すと青いジェットフレーム(炎)が立ち上がる、エクステンドの新バージョン「マキシジェット」「ミニジェット」を発表。従来のS.T.Dupontのライターとは一線を画す斬新なフォルムを実現。
シガー用にふさわしい力強いトーチフレーム(バーナーフレーム)と、クラシカルなデザインを融合した、S.T Dupontを代表するライター『LINE 2』のターボ式ライター「ライン2リベルテ」を発表。
炎調整やガス充填などデュポンの特徴はそのままに大幅に軽量化、S.T.Dupontのライターの中でも日常的な使用を想定して作られた「ライン8」を発表。筆記用具では、クラシックのDNAを継承したペン「ネオ・クラシック」を発表。
筆記用部では、ムダのないシュッと整ったボディデザイン、フランス語で「挑戦」を意味する「デフィ・シリーズ」を販売開始。
カール・ラガーフェルドとエス・テー・デュポンのコラボレーション。ライン2リベルテを「ライン2トーチ」と名前を変更。
モン・デュポンを発表(現在では製造中止)
英国のロイヤルウェディングを祝ってのフランス政府からの贈答品としてエス・テー・デュポンの製品が選ばれた。
世界一パワフルなライターを目指し、-10℃から-40℃の気温下や風速40km/hの暴風雨の中でも消えず、アウトドアの極限の環境でも使用できる「デフィ・エクストリーム」を発表。
女性専用ライター「リベルテ」を発表
スリム7を発表。
エス・テー・デュポンの卓越したクオリティと個性をさらに追い求めていくことを目的に「オート・クリエーション」部門を創設。
エス・テー・デュポンは、フランスの権威ある無形文化財企業(Entreprise du Patrimoine Vivant=EPV)認定ラベルを付与。
筆記用具でローリング・ストーンズ、007スペクター、スター・ウォーズ、シュート・ザ・ムーンコレクションが続々発表される。
ファイヤーヘッドのダイヤモンドヘッドパターンが改めて見直される。エス・テー・デュポンは、普遍的なシンボルである炎(ファイアー)をすべて三角形状(Wバーナー)に変更。
ル・グラン エス・テー・デュポン ライター(イエローフレームとトーチフレームの2種類の炎が出るライター)を発表。
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